【ライ麦畑でつかまえて】子どもたちはシーソーに乗らずとも楽しい

サリンジャーの筆致に漂う哀愁、懐かしい日々を想う切なさ。作者の心情が滲み出るかのような描写が、不朽の名作『ライ麦畑でつかまえて』にも息づいています。ホールデンの冷静な洞察が物語を彩り、子どもの純粋な楽しさと大人の愛情が交錯する瞬間に本書の魅力が詰まっています。

サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に感じる切なさ

サリンジャーが描く世界はどこか切ない。

サリンジャーの物語を読み終えると、遠い昔の日々を懐かしく感じるような感覚が広がります。サリンジャーが小説を書く過程で、自分の思い出にお別れを告げていたからなのかもしれないと感じます。

彼の文体には寂しさが静かに滲み出ています。

一人称で語られる物語

『ライ麦畑でつかまえて』は、なぜ一人称で語られる物語なのか。現代のSNSに広がる孤独感や「誰かに聞いてほしい独り言」をそこに感じます。

聞いてほしくないのに聞いてほしい、そんな思いを感じずにはいられません。

「ライ麦畑でつかまえて」のあらすじ

物語は、16歳のホールデン・コールフィールドが語る形で進行します。

彼は“名門”の進学校ペンシー校を退学処分となり、実家に帰る前での数日間、ニューヨーク市内をさまよいます。

ホールデンは、同級生や教師、売春婦、修道女、妹のフィービーなど、様々な人々と出会いながら、自分の存在意義や周囲の偽善に対する憤りを抱きます。彼の心の中には、無垢な子供たちを「ライ麦畑のキャッチャー(守護者)」として守りたいという願望があります。

ホールデンの“放浪”は、彼の葛藤と共にあります。彼は、世の中の偽善に対する怒りと、自身の未熟さや孤独感と向き合いながら、真の自己理解を求めて苦悩しているように見受けられます。それはまるで、自分がなるべき大人と自分がなりたくない大人の縁に立っているようにも見えます。

妹フィービーとの再会を通じて、自分の居場所と守りたいものを信じようと心に決めます。

切なさが漂うシーン

私が最も気に入っているシーンは、ホールデンが子どもたちがシーソーで遊んでいるのを手助けする場面です。

太った子と痩せた子が遊ぶ不均衡なシーソーにバランスを取ろうとするホールデン。しかし、子どもたちはその「手助け」につまらなさを覚え、そそくくさとシーソーを去っていきます。

子どもたちは、大人が知らない楽しみを共有していた描写です。このシーンでは、ホールデンが子どもたちを守りたいという思いが皮肉として表現されています。「大人」に欺瞞を抱きながらも、自身もまた欺瞞を抱かれる大人になってしまっています。

ホールデンの姿が切ないのです。

『ライ麦』の魅力

『ライ麦畑でつかまえて』の魅力は、ホールデンに共感しつつ社会の常識に異議を唱える楽しさと、大人とは何かを考えさせる点にあります。

この物語は、10年ごとに読み返したい一冊です。サリンジャーの描く世界の切なさは、彼の作品を読み返すたびに新たな発見と共感をもたらしてくれます。

投稿者プロフィール

セイウチ三郎(編集部)
『OLDNEWS』を発行しています。ウエブ限定のコンテンツも随時更新中です。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


TOP