切なさを感じながら
サリンジャーが描く世界はどこか切ない。
物語を読み終えたときに、あるいは本を閉じたときに、遠く過ぎ去った日を懐かしく感じるような感覚が心に広がります。それはサリンジャーが小説を書く中で抱いていた思いなのではないでしょうか。
私の憶測ですが、サリンジャーは書くことで思い出にお別れを告げているように思えてなりません。文章に滲み出る寂しさを感じます。
『ライ麦でつかまえて』は、なぜ一人称で語られた物語なのか。現代のSNSに広がる孤独感であったり、「誰かに聞いてほしい独り言」というニュアンスが感じられてなりません。
「ライ麦」のあらすじ
物語は、ある“進学校”を放校処分になったホールデン=コールフィールドが真冬のニューヨークを「さまよう」姿を描いています。
これだけ単純に表現してしまうと、物語もなにも存在しないように思えますが、ホールデンの観察、出会いや展開する様々な出来事が魅力的で、おしゃべりの上手い親しい友人が隣で語りかけてくれているような面白みがあります。
この魅力があるからこそ、アメリカ人であろうと、日本人であろうと、あるいは他のどのような国でも受け入れられ、「青春小説」と謡われながら世代を問わず愛されている理由だと思います。
青春とは自身と初めて向き合い、そうして他者と自信を比べる時期でもあります。そうしていつの間にか過ぎ去った日々に「お別れ」を告げています。
本書のある一場面にも切なさが漂います。
子どもが遊ぶシーソーに手をかけるホールデン
私が最も気に入っているシーンは、子どもたちがシーソーで遊んでいるところにホールデンが出くわす場面です。
この内容は、『OLDNEWS Vol.01』にもイラスト付きで書いたので、ぜひともご覧になっていただきたいのですが、こちらでも紹介させていただきます。
“いくらか太った子”と”痩せっぽち”の子どもが不均衡な状態でシーソーで遊んでいます。見かねたホールデンが、バランスを取るために痩せた子が乗っているほうに体重をかけ、「十分」に遊べるように“手助け”をしてやります。
しかし、ホールデンの思いとは裏腹に、子どもたちはつまらなそうな表情を浮かべています。
この光景は、ホールデンが大人として「正しい」遊び方を教えているつもりが、二人は大人が知らない楽しみを共有している、という瞬間を描いています。ホールデンの子どもを守りたい、見守りたいという思いが、皮肉な形で表現されています。
一見すれば、ホールデンも自身が気づかぬうちに大人になっている、と読めるのですが、ホールデンがそれに気がついているのかは分かりません。なんとなく理解していながらも、認めたくない思いも感じられるからこそ切ない気持ちを読者が抱くのかもしれません。
『ライ麦』の魅力は、ホールデンに共感しつつ「そうだ、そうだ」と社会の常識に異議を唱える楽しみと、客観的に見たときに「大人とは何か」を考えさせられる点にあると思います。
10年ごとに読み返したい一冊です。
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