無口な父

信頼

少なくとも僕にとって父は無口な人だった。

母も姉もそれほど無口ではないと言うが、それでも僕は父を無口な人だと思う。

家を出るまでに父から“小言”を言われたこともなければ、将来に対する要望も受けたことがない。

今となればそれが放任ではなく、一種の信頼だったと分かるが、当時はやはり距離を感じていた。自分は父にとってそれほど興味のない人間なのかもしれない。そんな風に。

ただ、制服を着るようになった頃には、父と息子とはそういうものだとも思うようになっていた。

距離

僕は静岡で生まれた。

家の近くには線路があって、電車が通るたびに家が小さく揺れていた。他人からすれば取るに足らないことで神経質になってしまうが、いちいち揺れる家で育ったことも理由の一つだと思う。

大学進学を機に上京することとなったが、家を出る前も出てからも、これといって父と何かを納得のいくまで語ったことはなかった。……ひょっとすると僕がそういう距離を取っていたのかもしれない。

会話

二十歳を過ぎたある年末に帰省していたときのことだ。

経緯こそ覚えていないが、父が古くから“なじみ”にしているおでん屋さんに二人で行ったことがある。お互いの丸椅子が触れるぐらい狭い店で、アサヒの瓶ビールを一緒に飲んだ。

そんな距離感でも僕らはこれといった話をしなかったように思う。

カウンター越しにおでんを指差してもくもくと食べていた。

「おいしい」

「好きなものを食べたらいいよ」

「これもおいしいね」

居心地の悪さを感じることはなかったが、その程度の会話だった。

家族

「雑誌を作りたい。サンプルの記事を作りたいから、良かったら話を聞かせてもらえないかな」

返信が届くまでずいぶんと気をもんでいたように思う。承諾の返信は簡素だった。

ガンに罹患した話を聞いたが、初めて聞く話も多かった。

当たり前だが、父は私の父である前に一人の人間であり、苦悩している。

記憶力が非常にいいこともそのときに知った。ガンの可能性を指摘された検診で、問診のために開けたカーテンの色を覚えていると言っていた。

「ガンとの闘病で感じたことを教えて」

家族にあらためて感謝をしていると答えてくれた。家族がいなければ、治療を諦めていたとも言う。

「家族はどんな存在?」

父は「『ありがとう』を言わなくても『ありがとう』が伝わっている存在だと感じた」と言った。

無口である理由の言い訳だろうと思わずにはいられなかったが、僕自身を肯定するような含みもあった。

以来、おでん屋で一緒に飲んだことはなかなかにいい思い出だったと感じている。

父の横顔

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