1
街に雨が降り続いていた。誰もが飽きもせずに雨についての話をしていた。話題はそれぐらいしかなかったのかもしれない。そこで暮らす人々の心には、雨さえ降り止めば、何もかもが元通りになるのだろうという思いもあった。
その街の駅から少し歩いたところに〝それなりの〟マンションが建っていた。ある夫婦がそこに暮らしていた。その夫婦は二年ほど前に越してきた当初から、マンションのベランダで多くの時間を過ごしていた。ベランダにいると、彼らはその街の住人になれたような気がしていた。そういうことに妻のほうが少なからずの安心感を覚えるようで、二人は街の住人について何度も語り合った。
「あのお店の彼、すぐに辞めちゃうんじゃないかな」
彼女は夫を見つめた。二人が知っていることは、雨が当分降り続けるということだけだった。
2
雨が降り始めてひと月もすると、妻は少しずつ変わっていった。毎晩、寝支度を済ませると、彼女は過去の話ばかりするようになった。母親に小さな家をプレゼントするために大学で建築学を専攻していたこと、出来の良い兄がいたこと、地方紙ではあるが、モデルじみたことをしていたこと……しかしながら、話はいつも下方曲線を描きだし、こんな風に終わる。
「そう言えば、今日も降り止まなかったね」。彼女は続けてこう言う。「明日は止むよね?」
そうして二人は感情のないキスをして眠りにつく。これが二人の会話であり、二人の全てだった。彼らが通うコーヒースタンドのフラッグが風にはためく度に、街の誰かが病魔に犯されていた。
3
ある夜の深い時間に、出会ったばかりの二人はベランダに出て、びしょ濡れになったTシャツやら下着やらを次々にカゴを目掛けて放り込んでいた。二人は濡れたシャツを手にして無邪気に笑っている。
「ねえ、こんなことするのって初めて」
「僕だって」
「ふつう、雨の日に、何かを干したりする?」
「こんなに吹き込むなんて!」
男は大きな声で笑っていた。
「もう少しだけここに居てもいい?」
「もちろん。でも、まずは何か食べに行かない?」
「こんな時間に?」
彼女は何も言わずに男の手を取った。二人はもう一度、ベッドに入った。ひんやりとしたシーツはひとつの感覚を彼に思い出させる。男は枕に肘をつき、じっと彼女の横顔を眺めている。初めて目を見たときから、その長くカールした睫毛が好きだった。
「びしょぬれの〝あのこたち〟はどうするつもりなの?」
「明日の朝、コインランドリーにでも行くよ」
「私も一緒に行っていい?」
男が小さく頷くと、彼女は安心したように笑った。
4
週末の昼時にも関わらず、夫がベランダから見下ろす道路には、人の姿も走りゆく車もなかった。二列の欅が雨に打たれ、裸になった枝を震わせていた。
雨が降り始めた日のことを妻はよく覚えていた。肌を突き刺すような冷気で目を覚ました。膝のあたりが少し痛み、ベッドから出るのにいつもより時間が掛かった。暖房より先にテレビをつけると、天気予報士は神経質そうな声で午後から雨が降りだすことを告げていた。それは予定を台無しにされてしまったような口ぶりだった。マンションのエントランスを早足で抜け、人通りに加わった。小雨だったからだろう、彼女は傘を持つ気にはなれなかった。
オフィスが入っているビルの一階のカフェで彼女は入口に近いカウンターについた。熱いコーヒーを一口飲んでから、バッグから革のカバーのついた手帳を取り出して、その日のメモ欄にこう記した。『かわいそうな天気予報士』
一台の紺色のクーペが、彼女たちのマンションの向かいにある花屋の前に停車した。彼女は振り返って、テーブルにつく夫を見た。夫は冷えたコーヒーを熱そうにすすっていた。
「雨の日に花を買うなんて、信じられる?」
「そうだね」
「ねえ、初めて会った夜のことを覚えている?」
「もちろん」
「あの日も雨が降ってた」
「そうだった?」
「……ねえ、わたし、どこかに行きたい」
「いいね」
「どこがいいかな?」
彼女はまた外を眺めた。花屋の店主が庇の下に出てきたように見える。客のために花を説明しているんだろうと彼女は思った。数分もすると、客とともに店内に消えていった。
「昔は、雨の日が特別だなんて思わなかったわ」
夫は何も言わなかった。
「今は嫌いなの」
「大丈夫。いつか止むよ」
男は顔を上げ、妻を見た。笑っているようにも、呆れているようにも見えた。男は大げさに口を広げ、固くなったトーストの最後の一口をそこに運んだ。皿の上で手をはたき、皿をどけた。週刊誌を手に取り、別の記事を追い始めた。彼女はまた、窓の外に目を向けた。「大丈夫って言葉、好きじゃない」
「悪かったね」
彼女はその言葉も嫌いだったことを思い出す。
「どこかに出掛けない?」
「ああ」
「何を着て行こうかしら」
「外は寒いよ」
「うん」。小さな声で続けた。「外はとても寒いわ」
遠く見えるひとかたまりの森のような公園にも雨が降り注いでいた。二人が最後にその公園へ行ったのはずいぶんと昔のことだった。落葉が道を覆い、彼女は、それを踏むのを楽しんでいた。公園の中心にある池には、鴨がいた。それを見た夫は、売店でアイスクリームを買おうと提案した。二人は寄り添ってベンチに座り、そこで何時間も笑っていた。
「公園に行ってみない?」
「何をするの?」
「貸切りなんてめったにないから」
「誰も外に出たがらないからね」
車が路傍の水たまりをぴしゃりと跳ね上げて行った。きっと、若い男女が乗っているんだ。彼女はそう思った。
「車で前を通りがかるだけでもいいのよ」
「うん」
「それだけでいいの」
窓に打ちつけられた無数の点を指でなぞっていた。行くべき地名を示してくれそうだった。「ここにはいたくない」。窓に映るのは、真っ白なセーターを着た女だった。薄化粧を顔に施した女。うんうんと、頷く。――悪くないわね。そう心の中で呟く。組んでいた手を解き、カメラのレンズに身構えるように、モデルじみたことをしていた頃を思い出し、いくつかのポーズを作って遊び始めた。窓に映り出すその体を子細に眺めて、もう一度、お気に入りのポーズを作る。
「ねえ」彼女は、窓越しに夫の顔を見つけ出してから、言った。「どうかしら?」嬉々とした声が、部屋中に響いた。彼は一瞬だけ顔を上げ、言った。
「きれいだよ」
「ほんとう?」
窓ガラスに映る女の姿は、均整のとれたプロポーションをしている。「今でも君は十分きれいだよ」。彼女は夫のほうへと振り返った。が、彼はもう見返してはいなかった。左手で器用に週刊誌のページをめくっていた。
彼女は左手でセーターの袖をめくった。骨ばった腕をまじまじと眺めて、消えないシミをいくつか見つける。
「袖なしのワンピースをまた着られるかしら?」
「夏になれば着られるよ」
彼女は小さくため息をついた。「雨の日でも」。語気をいくらか強めて彼女は言った。「出掛けられるところってあるのかな?」
ある晩から、彼女は魔力を失ってしまった。その言葉を聞いた誰もが彼女を夜の街に連れだそうと苦心した。
「ねえ」しばしの無言。彼女の背後からページをめくる音が聞こえてくる。音は冷たく響いた。「こんな雨の日にどこかに出掛けるなんて、どうかしているよね」
妻はいまにも泣きそうだった。
「どうしたの?」人を制するような声だった。彼女はその声を聞き、振り返った。夫が心配そうな目をして彼女を見つめていた。彼女はその目と声に反抗心を覚えていた。
「コーヒーでも飲もう。ぼくがいれる。飲んだら少しは落ち着くよ」
夫はテーブルに両手をついて立ち上がり、キッチンへと向かった。カウンターに置かれたコーヒーメーカーにスイッチを入れてから、ひとつ、ふたつと棚を開けてからやっとコーヒー豆を見つけ出した。
「なんだか急に老け込んじゃったみたい」
「そんな年でもないだろう?まだまだ若いよ」
「ほんとう?」
「少なくとも、永遠にぼくよりは三つ若い」。彼は機嫌がよさそうに笑った。その目元には、余裕にも似た柔らかさが感じられる。彼は年を取ることにすんなりと順応しているようだった。
妻は昔の友人に久しぶりに電話を掛けようとしていた。行く先も分からぬくだらない会話が、今の彼女にとっては必要だった。それでも、彼女は何もしなかった。
「コーヒーを飲んだら、どこかに行こうよ」
「いいの。さっきはごめんね」
「すこし、その辺を車で走ろうよ。それぐらいならいいだろう?」
「そうね。ありがとう」
「昔みたいにさ」
揃いの真っ白なコーヒーカップがテーブルまで運ばれてきた。ふたりでテーブルにつき、取りとめもない会話をしながら、コーヒーを飲んだ。結局、彼らはその日、その部屋から出ることはなかった。少しばかり手間をかけた夕食とバラエティ番組。それでその日は終わりを告げよ
うとしていた。
5
その晩、彼女はなかなか寝付けなかった。目をつぶり、じっと沈黙をやり過ごそうとしていたが、無駄だった。夫の寝息が彼女の心をかき乱した。ときおり、目を開け、天井を眺めた。彼女は寝返りを打った。そして慎重に手を伸ばし、優しく彼の頬を撫でた。彼の鼻に触れ、彼の瞼に触れ、形のいい唇を指の腹でゆっくりとなぞると、彼女は過ぎ去った時間を懐かしく思った。誰かと真剣にキスをしていた頃のことを懐かしんでいた。それは何もかもが鮮明だった時代だった。
彼女は諦めたようにベッドから降り、寝室を後にした。リビングの家具は息をひそめるように首尾よくそこに収まっている。空気はひんやりとしていた。明かりもつけずに、部屋にある唯一の窓の前に立っていた。
窓に掛かるカーテンを開けはしなかった。ただ、そこに立ち、耳を澄ましていた。雨はいつか止む。使者は去る。街のあちこちにみられる水たまりもいつかは干上がり、花屋の庇から垂れる雨滴も消える。「晴れの日が続くでしょう」。陽気な天気予報士の声が彼女の頭に響く。
いつか、こんなにも長く雨が降ったことなど彼女は忘れてしまうのだろうか。わたしもそんな風にして忘れ去られてゆくんだわ、彼女はそう思った。大丈夫、私だけじゃない。でも、わたしはただ、何もかが、うやむやの内に過ぎ去っていくのが怖いの。渇いた地に誰が水を与えてくれるのだろう。仕事に精を出し、夫を愛し、小さな喜びと小さな怒りを交互に抱きながら……。そうしていつかは、わたしも死ぬのかもしれない。そこに何が残ると言うの?そういうものが人生だと言うのならば、わたしはもっと早くそれを知りたかった。
彼女は涙を流し、カーテンの端をぎゅっと握りしめていた。涙がほほを伝い、冷え切ったフローリングに落ちた。あまりに尊く、両手から零れ落ちた滴がその自分の居場所にきらりと光らせた。――雨が止んだらどうしよう。いっそのこと止まなければいいんだ。
彼女は亡き母のことを思っていた。
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